カワズの暮らし

思いついたことを煮詰める場所です。

目的とビジョン

「なにをするにも目的設定が大事だ。」

「目標をしっかり持ってがんばりましょう。」


そんな当たり前のことにちょっとだけ疑念を抱く自分がいます。


目的化の問題点

なぜ目的化が必要なのか。
本当にそれがすべてなのだろうか。

自分にはそれによって失ったものが少なからずあったという気がしています。


もちろん目的が明確ではないまま始まった取り組みが結局どこにも辿り着けないまま終わる、なんてことはあるでしょう。そうならないため的確な状況分析に基づき目的化して達成までの道のりを照らしだすということは、誰に言われるでもなく誰もが無意識的にやっていることでもあります。


ただ、目的化するということで「曖昧さを許さない」というバイアスがかかってしまうことは考えられないでしょうか。たとえそのつもりがなくても、人はもやもやとしたイメージそのものよりもはっきりとカタチにした何かに意識を引っ張られるものです。たとえばそこに何らかのズレが生まれたとしたら?


たとえば「見られる」ことや「評価される」こと、そして「誰かと共有すること」を意識するあまり、最初に思い描いたはずのものとは異なったことを口にしてしまう。そんな経験はないでしょうか。


目的が転倒するとき

お嫁さんになってしあわせになりたい、とか。 
世界一の剣豪になりたい、とか。 


なんでもいいのですが、目的、目標、野望、ゴール、夢、

それらはまずひとりの頭の中の抽象を具現化したものです。
彼の頭の中には、そこに辿り着き笑顔で喜ぶ自分がセットで描かれるのだと思います。


それが夢として、野望として、目的として具体化されていく過程で
現実的な達成期限や、ちょっとした想像力不足など、いろんな障害のせいで目的の奥の「喜び」を手放してしまうことがあるのではないでしょうか。それは本末転倒といってしまっていいのではないでしょうか。


では、なぜそうなるか。

根本にあるのは「言葉」の信じすぎだと思うのです。


ある種の「願い」には必ず笑顔の自分が一緒にいるのだけど、達成してみると当初思い描いたはずの喜びはなかったりする。それは漠然としたイメージを明瞭な言葉に換えるときに生まれるロスというか、微細な誤差に頓着がないからだと思います。


あんなにおもしろかったはずのことがただの「目的」というスローガンに成り下がってしまった。それはものすごく恐ろしいことのように思えるのです。


夢を描く力

これは表現力の問題だと思うのです。決して「夢を見ること」を否定したいのではありません。
むしろ「夢を描く力」をもっと問うべきだと言いたいのです。


どこかでだれかが言っていたような「夢文句」をそのまま流用してしまってはいないか。
「とりあえず」で立てた旗印に向かって進んでいたら、知らない土地で迷子になってやしないか。


自分の本当の「願い」を今ここに正確にあらわすことなんて本当にできるのか。


安易に夢をカタチにすることを、決して急ぐべきではないと思います。さんざんお尻を叩かれ進んできた末に「思ってたの」と違ったと気づいても遅いのです。夢という「空欄」はもっと繊細に扱うべきではないでしょうか。


感覚でつかみとる

とはいえ目的を持つことを放棄して本能的にただ歩き回るだけでは、やはりどこにも辿り着けない。
そう思います。


ようするにあらゆる手を尽くして手探りで試行錯誤を繰り返せ、という単純な解しかないのかもしれません。はっきりとした言語化はまだできなくても、あらゆるチャンネルで感知し、修正し、つかみとるのです。


「言葉」による絶対座標はけっして万能ではないのです。
むしろ感覚のチャンネルを一元化することはたくさんのロスを生みます。


ビジョンという代替案

人は絶望の中では立っていられない。
何かが見えていないと歩き出すことすらままならない。
だからこそ「夢を持て」と励まし、「夢に向かって頑張れ」としか言えないのが大人の悲しい性です。


それは険しい山道を行く者に重たい聖書を持っていけというようなもので、ふもとの空き地には現実を知った若者達の夢の不法投棄がはびこっています。


そんなものいらない、
たった一枚のピンボケ写真でいい。


それが「ビジョン」だと私は考えます。
ビジョンとは幻想上の「風景」のようなイメージです。
表象する以前の想像力そのものに近い状態で、ボンヤリとは持っていてもハッキリ描ける人はなかなかいません。それは時に絵や音楽や映像で奇跡的に表現されると、たまに芸術と称えられる類のものです。


最初は借り物でもいいでしょう。
借り物だからいつも現実と照らし合わせる必要があり、途中経過と思い描く到達点をいつも見比べる癖がつきます。そのなかで切り替えたりもっと深めたり、不便なことも多いはずです。ですが後生大事に抱えた「言葉のバイブル」とは違って、柔軟で親しみやすいものになれると思います。


未熟だったビジョンは進むにつれ精度を増し具体的になっていきます。むしろたくさんの借り物で磨いた選球眼が徐々にゼロからビジョンを表現する力を養います。
それがきっと夢を描く力です。



おそらく、自分の夢の輪郭はやがて眼前に浮かび上がってくるのです。
最初から遠くに見えている陽炎は、偽物といってしまっていいでしょう。


とにかく目的化の圧力から夢の本当のカタチを守る。歪ませない。


そんなことを、誰かに伝えたくて
自分に言い聞かせたくて、拙い文章にしてみました。

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